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ジェンダーマリアージュ試写を見て(雑感) [LGBT]

2月20日頃から、中洲大洋で公開予定とされている映画、
「ジェンダーマリアージュ―
 〜全米を揺るがした同性婚裁判〜」の試写を見た。
(約1週間の公開らしいです、ぜひ見に行ってみてくださいね)

訴訟経過や結論はなるべく記載しないお約束として。
アメリカと日本の法の構造や司法手続きの違いに
ところどころ「?」と思いながらも、
最期までぐっと引き込まれた。

この布陣・技術・能力をもって、この経過と結論。
このヘイトスピーチ、バックラッシュ。

個々人が、人に何かを強制するでもなく、命ずるでもなく、
ただ自分のアイデンティティを求めるときに、
なぜここまで、他者がそれを妨害しようとするのか。
信念とか、宗教とか、価値観とか、良識(?)とか。
それは、個々人が大切に自分のものとしてもっておけばいいのではないか?
人に押し付ける必要があるのか?

先日の選択的夫婦別姓訴訟といい。
LGBTバッシングといい。
ヘイトスピーチといい。
他人の貧困や困窮を「自己責任」と切り捨てつつ、
こういうところでだけ他人の人生に介入してくるこの心性は何なのだろう?と
いつも疑問でならない。

けれども、それをはねつける、原告達と、
彼・彼女らと共に歩む支援者の、あふれる思いと力。

時々へこたれそうになるけれど、
こういう湧き上がる何かを見るときに、弁護士という仕事は素晴らしいと思う
(原告さん達がいちばん素晴らしいのは言わずもがなとして)。

こういう何かを作りだすために、映画には出てこない、
おそらく気が狂いそうなほどの膨大な、
作業と話し合いとトラブルと、様々なことを乗り越えてきたに違いなく、
その映画外の膨大な背景に対しても敬意を抱いた。

もちろん規模も内容も全く異なるけれど、
何年も前に、原告さんたちと寒い街頭を行進し、
霞が関で互いにマイクを持ち、笑って泣いて、
法案成立で飛び上がるように抱き合ったことが頭をよぎった。

でも・・景観のよいオフィスもケータリングはなかったな。
窓をあけると隣のビルの壁!の部屋に、
みんなで篭ってPCを打ち続け、
3日続けてCoCo壱だったこともあったな(^_^;)
(アメリカと日本の、人権問題をとりまく人たちの
 全体的な構造差として)。

何れにしても、あの時も。この映画も。
やっぱり、自分の、あるいは誰かの、
人の尊厳のために闘える人は素晴らしいと思う。

でも、ここまで闘わないと、あたりまえの人権が尊重されない
人間社会って、何なんだ?とも、いつも思う。

本当は日本ででも、たとえば今日からでも明日からでも、
普通に、それぞれの人が、自分が結婚したいと思う人と、
自然に結婚できてしかるべき、と、あらためて思う。

(郷田真樹)
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選択的夫婦別姓制度を、国会判断にまかせた、最高裁判決について [人権]

選択的夫婦別姓制度についての今回の最高裁判決について思ったこと。

現行の制度が違憲とまではいわないが、選択的夫婦別姓制度についても合理性はあり、
国会で議論すべきという内容だった。

3人の女性裁判官は全員違憲判断、
2人の弁護士出身の裁判官も違憲判決
残る男性裁判官だけが多数派を構成し、いろいろ述べつつも、
不利益はあっても、まあ許容範囲だろう的な判断をした。

詳細は多数の報道・意見に譲るとして、今回本当に、女性
(性的マイノリティも含む)の地位ということを思い知らされた。

女性や少数者の権利を特に大切にしたいと思って、
弁護士をしている者の発言としては不適当かもしれないが、
男女共同参画という言葉は得意ではない。

女性は、体調に、仕事に、あるいは夫や育児や介護にと、誰もが手一杯だし。
ただでさえ、無あるいは低賃金の重労働を担いがちで、
なのに、社会は無言の圧力で、若く優しく美しくあることを求めてくるし。
看護師さんも、保育士さんも、介護職の人達も、
もしそこが長らく女性職場でなければ、より常識的な待遇を受けうる職種でありえたのだろうし。

そういうあれこれに納得がいかなくなった女性
(あるいはマイノリティと言われる方達も含む趣旨です)が、
よほど意識的に、私が社会を変える!と決断をして、
さまざまな犠牲のもとに政治家をはじめとした、
社会を動かしうる地位につけたとしても、
たくさんの男性から、
「女性だからだろ」とか、「女だてらに」とかいう誹謗中傷に耐えて、
セクハラも受けて、
でもいつもいつも喧嘩をするのも大変だから、上手におあいそもいって、
笑顔でかわして、こっそり泣きながらでも、明るくやっていかないといけないし。

それを乗り越えてまで、女性達に、
「共同参画しろ」、「達成目標は30%だ」とお題目のように唱えられることに、
必要性は感じつつも、負担に感じたり、
「その前に30%の女性が参画できる社会を作ってよ」
と思ってしまったりする感覚が、ずっと抜けずに来た(今も抜けない)。

でも、今回は本当に身にしみて、
日本社会は男性社会で、三権それぞれが男性中心にまわっている、
女性の不利益は不当に軽視されている、ということを痛いほど感じさせられた。

均等法以前の女性たちの怒りと苦しみは、
こういう感じだったのかなあとも思った(もっとだったかとは思うけれど)。

たとえば、今回の最高裁で、女性裁判官が、もし過半数を占めていたら。

法律婚をして姓の変更を余儀なくされた、
法律婚をして戸籍上の姓は代わり職業うえは通称使用を続けて不便があった、
あるいは姓の変更を拒否して事実婚をして多大な不利益を被っている女性の声を
もう少し、自分自身の問題として想起してくれたのではないか。

そういう人達が過半数を占めていたら、
自身の姓を名乗ったまま法律婚をしたいという人達の、
他人に何かを強制するわけでもなく、現行制度を否定するわけでもなく、
ただ、希望する人にだけ選択の自由を与えてほしいという人達の、
ごくささやかな、けれどもその人生やアイデンティティをかけた声を、
「通称が使えるからいいじゃないか」と言わんばかりに、
こうも簡単に切り捨てたりはしなかったのではないか。

結局は、96%が夫の姓を選ぶ社会のなかで、
選択的夫婦別姓を望む声は、
10対5という最高裁の男女比に押しつぶされそうになっているのではないだろうか。

多くの女性たちは、家族をもつと同時に、
家事・育児・介護といった、無償かつ重労働のケアワークを背負い、
男性なみの働き方はなかなかできないことが多い。
家族をもたない場合にも、そもそもの体力や年齢的な体調の変化も複雑だったりする。

その結果、現代社会で評価されやすい、
仕事ができる、権力がある、経済力があるという立場に、
これまでに、なかなか立ち得なかったのではないか。

国や地方の政治で、企業活動で、社会のあまたの部分で、
家庭責任が少なく、その活動に熱心に取り組めたものだけが評価され、
その人達が、自分たちに都合のいい「世の中のルール」を築いて、
それをまた、女性も含めた社会全体に強いていくのが、今の社会だ。

ルール作りに参加するだけの余裕がない女性は、
ますます社会から阻害され、不利益を被らされ、
それを不当に軽視され、我慢を強いられる。

それは、とても超えられないハードルを設定されて、
「超えられた人だけが社会のルールを作る権利がありますよ」、
「ハードルを超えられない人は、ルール作りに参加できなくても仕方がありませんよ」、
「そのために、少々不利益を被ったて、
 自分たちがルール作りに参加しないんだから自己責任ですよ」、
と言われているのに等しいのではないか。

多くの女性が、男性並みの平等ではなく、
本来の女性の生活やペースや働き方を前提に、
それでも安心して、政治活動・経済活動・社会活動に参加できる世の中が必要だと、
心から思った。

女性たちは、表面上は男女平等だ、女性は強くなったと言われながら、
けれどもこういう、憲法・民法といった、国の根幹をなす部分では
未だに二級市民として扱われながら、
それでも粘り強く、地域社会を支え、大切に子どもたちを育てて社会におくりだし、
年老いた親を介護し、社会の一番の基礎をつくりあげてきた。

どんなに偉い権力者でも、政財界の要人でも、
女性のケアを全く受けずにその地位についた人は、ほとんどいないだろうと思う。

今回の最高裁裁判官達も含め、多くの裁判官もまた、
母親や妻に支えられ、その職業人生を全うしてきている人が
多数ではないだろうか。

そうでありいながら、
多数の女性や家庭が被ってきた大きな不利益や、
アイデンティティの揺らぎや、苦痛や、
そうしたことに対して、あまりに無自覚な判決ではないかと憤りを感じた。

女性裁判官達の意見は、その点で極めて明瞭だ。

*********************

実に96%を超える夫婦が夫の氏を称する婚姻をしているところからすると、
近時大きくなものとなってきた上記の個人識別機能に対する支障、
自己喪失感などの負担は、ほぼ妻について生じているといえる。

96%もの多数が夫の氏を称することは、
女性の社会的経済的な立場の弱さ、
家庭生活における立場の弱さ、
種々の事実上の圧力など様々な要因のもたらすところであるといえるのであって、
夫の氏を称することが妻の意思に基づくものであるとしても、
その意思決定の過程に現実の不平等と力関係が作用しているのである。

*********************

女性も参加しやすい社会を。
女性も積極的に社会への参加を。

女性どうしで、結婚するしない、子どもを持つ持たない、仕事をするしないと分断して、
お互いに非難しあったり、争いあったりするのではなくて、
互いの選択を尊重できて、互いを大切にしあえる社会を、心から希望するし、

上に立つ人を増やしたり、その人を支えることからも、
あるいは一人一人の草の根の語り合いや生活のなかからも、
どちらの方向からも、みんなでつくっていきたいと、今日、強く心に思った。
(もちろん、性的マイノリティと言われ、いわゆる男性名誉市民的な立場にたてない人達も、
 あるいは男性だけれども、性別等に関係なく、人が個人として平等だという価値観を
 共有してくださる方みなを含んで)。

郷田真樹
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憲法カフェ女子会バージョンを開催します♪ [憲法]

当事務所の弁護士も講師を担当する憲法カフェが開催されます♪
憲法カフェとは、「明日の自由を守る若手弁護士の会」(通称「あすわか」)が主催する、知見のためのカフェです。
ゆるい雰囲気の中、弁護士を交えてざっくばらんに憲法についてお話しています。

今回は、女子会バージョンと題して、「両性の本質的平等」について定めた憲法24条を主に取り上げます。

11月28日及び12月12日いずれも空きがありますので、周囲のお友達をお誘い合わせのうえ、お気軽にご参加ください。

※申し込みが必要になっております。詳細は添付のちらしをご覧ください。
憲法カフェ女子会バーションちらし-JPEG.jpg
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日曜日(9/6)、集会に行こう                      憲法違反の安保法制の廃案を求める市民集会 at福岡・北九州 [平和]

政府は、集団的自衛権の行使を容認する安全保障法制案を通そうとし、目下、参議院で審理されています。
集団的自衛権は、日本が攻撃対象とされていないのに、
同盟国のために戦争に参加するもので、
安全保障の形を大きく変え、
憲法9条に明らかに違反します。
歴代の政府見解は、「集団的自衛権は憲法では認められていない」としてきたのに、安倍内閣は、「認められている」との解釈を主張し、
多くの憲法学者からも、また先日は、元最高裁判所長官からも、
「間違った解釈だ」と批判されていますが、全く意に介する気配はありません。

法案は、9月27日にも強行採決されかねません。

国会で採決されてしまえば、「内閣が勝手な解釈を唱えている」ではなく、
それは「国民が支持した」という形を与えてしまいます。

国の安全保障の形については、いろいろな意見・立場があるかもしれません。
しかし、異論を無視…どころか、そもそも理解を得ようともせず、議論自体を拒否して、
国のあり方を決める重要事項を数の力で押し通す、というやり方は、大変危険です。

こうした危機感は、広く共有され、
ここにきて、これまで、政治的なことは話題にも行動としてもしたことがなかった人達も、
デモや集会に参加したり、SNSで発信したりしています。

福岡でも、明日9月6日、大規模な市民集会とパレードが予定されています。
冷泉公園にて                                 (福岡市博多区上川端町7。「中洲川端駅」徒歩4分)       11:30~リレートーク(30分)                      12:00~パレード                               北九州地区では、勝山公園にて(小倉北区城内3)           14:00~集会、15:30~パレードです。

短い時間ですので、ぜひご参加下さい。ちょっと立ち止まってもらうだけでも構いません。
「平和」の反対は「無関心」とありました。
心の中、家の中だけではなかなか届かない声を、たくさん集めて表現する大事な機会です。
ちょっとだけ、未来の私達のために、時間を割いて下さいませんか。

相原わかば

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マイナンバー制度とDV被害者 [DV]

 2016年1月から,マイナンバー社会保障・税番号制度が実施されることになりました。マイナンバー制度とは,住民票を有する全ての方に対し,1人1つ,12桁の個人番号を指定するというものです。法人には法人番号が指定されます。

 このマイナンバー制度は,国の行政機関や地方公共団体が保有する個人情報とマイナンバーを紐づけて効率的に管理することを目的としています。マイナンバー制度のメリットは,①国民が社会保障・税に関する手続を行う際,一部の添付書類(住民票・所得証明等)を省略することができるようになったり(国民の利便性の向上),②手続が正確で速くなったり(行政の効率化),③給付金等の不正受給を防止することができること(公平・公正な社会の実現)が指摘されています。

 しかし,マイナンバー制度は,国民が,国や地方公共団体から,社会保障の利用状況や税の納付状況を管理されてしまうというものであり,プライバシー保護等の観点からは非常に問題の多いものです。

 このマイナンバー制度の実施に先立ち,2015年10月から,住民票上の住所宛にマイナンバーが通知されることになりました。家庭内暴力(DV)に遭い,住民票上の住所とは異なる場所に住んでいらっしゃる方は,家庭内暴力の加害者に大切なナンバーを知られないようにするため,通知の送付先を変更する手続を行うことをお勧めします。

 具体的な方法としては,①お近くの役所又はインターネットで「通知カードの送付先に係る居所登録申請書」を入手し,必要事項を記入し,平成27年8月24日(月)~9月25日(金)までに住民票のある市区町村に持参又は郵送するようにして下さい。この際,添付書類として本人確認書類(運転免許証等)が必要となります。家庭内暴力で避難されている方の中には,運転免許証等を持たずに自宅を出た方もいらっしゃると思います。このような場合,「官公署から発行され,又は発給された書類その他これに類する書類であって,住所地市区町村長が適当と認める書類」で代用することができることがあります。具体的には,生活保護受給者証,健康保険の被保険者証,児童扶養手当証書等です。また,官公署から発行されたものでなくても,民間企業の社員証,学生証等で代用することができることがあります。

 この他,②現在住んでいらっしゃる場所の市区町村に出向き,「個人番号カード」の交付申請を行うという方法もあります。

 もしこれらの手続を行わず,家庭内暴力の加害者にマイナンバーを知られてしまった場合,「個人番号が漏えいして不正に用いられるおそれがあると認められる場合」,ナンバーを変更してもらえることがあります。しかし,必ず変更してもらえるとは限りませんので,期間中に手続をすることをお勧めします。

(弁護士 石本恵)

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夫婦別姓、女性の再婚禁止期間について、最高裁が憲法判断に踏み切ります!

2月18日、最高裁判所は、現行民法の定める「夫婦は同じ姓を名乗らなければならない」という決まりと、女性については、「離婚から6カ月経過しないと再婚できない」という決まりについて、憲法の保障する男女平等の権利に反するかどうかの判断に踏み切ることを決めました。今日は、このニュースについて書きたいと思います。

 現行民法は、夫婦の氏(姓)について、「夫または妻の氏を称する」(民法750条)としており、夫の姓を名乗らなければならないとはしていません。しかし、現実には、96.2%の夫婦が、婚姻時に夫の姓を選択しており(2008年人口動態統計より)、職業上・社会生活上、様々な不利益を被っている女性がたくさんいます。
 この問題について、選択的夫婦別姓制度(夫の姓でも妻の姓でも、それぞれ別の姓のままでもよいという制度であり、決して、「別姓」を強制されるものではありません。)等を盛り込んだ民法の改正案が、1996年には法制審議会において決定され、法務大臣に答申されています。また、国連の女性差別撤廃委員会も、2009年には、このように同姓を強制する規定は差別的なものだとして、民法の規定を改正するよう厳しく勧告しています。
 にも関わらず、「選択的夫婦別姓制度の導入により、家族のきずなが失われる」などの反対意見によって、現在まで改正がなされずにきました。

 また、女性にのみ課されている6か月間の再婚禁止期間については、1995年に、最高裁判所が、この規定は、子どもの父親が誰であるかの推定が重複することを回避し、父子関係をめぐる紛争の発生を未然に防ぐことにあると判断しましたが、科学技術の発達により、DNA鑑定等による父子関係の確定が簡単になっている現在においては、もはや再婚禁止期間を定める合理的な根拠は失われていると考えられます。

 実は、家族関係のあり方を巡る民法の規定について、最高裁判所は、2013年に、婚姻していない男女の間に生まれた子(婚外子)の相続分は、婚姻している男女の間に生まれた子の相続分の2分の1であると定めた当時の民法900条4項について、憲法の定める法の下の平等(憲法14条)に違反すると判断し、その判断に基づいて、民法は改正されました。
 今回、「最高裁判所が憲法判断に踏み切る」というのは、決して、「これらの規定を憲法に違反すると判断する」という意味ではなく、真逆の結論を導く可能性もあります。しかし、これまで最高裁は、これらの問題について憲法判断を避けてきたので、今回のこの決定は画期的なものなのです。

 婚姻によって姓を変えなくてもよい権利は、欧米ばかりでなく、今やアジア諸国においても、当然のように認められているものです。また、再婚禁止期間についても、女性にのみそれを課することは男女平等に反しますし、その女性、それからその女性と結婚したいと考えている男性が結婚する権利をも侵害しているものといえます。司法の最高機関である最高裁判所には、時代に逆行する判断を決してしてほしくないものです。
 これらの問題については、福岡県弁護士会でも、2010年、「選択的夫婦別姓の導入」、「女性の再婚禁止期間の撤廃」、「婚外子差別規定の撤廃」を求める会長声明を出し、運動を後押ししてきました。当事務所でも、福岡県弁護士会の両性の平等に関する委員会に所属するメンバーを中心として、国会議員に法改正の要請をするなどして、これらの運動に関わってきましたし、高い関心を寄せてきました。今回のニュースが流れた日、事務所の内部では、「とうとう最高裁が!」とメールが飛び交いました。

 余談ですが、安倍内閣は、「女性が輝く社会」を掲げ、女性閣僚を過去最高の5名登用しました(そのうち二人が内閣発足後すぐに辞任したのは、皆様も記憶に新しいことと思います。)。しかし、高市早苗氏は、国会議員時代に、選択的夫婦別姓制度の導入について反対意見を示していますし、山谷えり子氏、「女性活躍担当相」に就任した有村治子氏に至っては、2010年に開催された「夫婦別姓に反対する国民大会」に出席しています。山谷氏、有村氏はともに、男女共同参画などに反対する「日本会議」のメンバーでもあります。また、安倍首相と近い立場にあり、思想的にも似ていると言われるNHK経営委員の長谷川三千子氏は、昨年、「女性の社会進出が出生率を低下させた。男は仕事、女は家事育児という性別役割分業は哺乳動物の一員である人間として、極めて自然」などという男女共同参画政策に反対するコラムを産経新聞に寄せ、物議を醸しました。
 このような政権に、果たして本当に「女性の活躍の実現」が果たせるのか、大いに疑問です。このような政治情勢であるからこそなお余計に、最高裁判所には、是非とも、現行民法の定める夫婦同姓の強制、女性の再婚禁止期間が憲法に違反していると判断してほしいものです。
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過去を直視することの大切さ

統一ドイツの初代大統領ワイツゼッカー氏が、1月31日に亡くなりました。
ワイツゼッカー氏は、終戦40年を迎えた1985年5月8日、
ナチスドイツの過去をありのまま見つめる勇気を持つよう求めた演説をし、
戦後史に残る名演説の一つとも言われています。
その後、同氏は近隣諸国との和解に貢献してきました。

日本にも苦い歴史があります。その歴史の上に、制定され、守り続けてきた憲法9条があります。
現在、日本でも、終戦70周年談話に何を盛り込むかで議論が活発になされています。
改めて、過去を直視することの大切さ、歴史から学ぶべきこと、若い人たちに伝えるべきことに思いを馳せます。
(柏熊志薫)

以下、ワイツゼッカー氏の演説を一部抜粋。
ーーーーーーーーー
問題は過去を克服することではありません。
さようなことができるわけはありません。
後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。
しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。
非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

(中略)

われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。
われわれの義務は率直さであります。
心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。
ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。

人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。

道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

(中略)

若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

(中略)

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。

民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。
平和のために尽力しよう。
公正をよりどころにしよう。
正義については内面の規範に従おう。
今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。
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追悼

                  
後藤さんまでもが殺害されてしまった。

紛争地で苦しむ人に向き合い、
寄り添い、行動する人だったという。
学校での講演では、
影響を受けて、平和や人権のために活躍することを目指す若者も少なくないという。

何とか戻って、再び、多くの種を蒔いて欲しかった。
地道でひたむきに人の支えとなり、さらに希望を紡ぐであろう存在が、
それでもあっけなく殺されてしまったことの理不尽さに
立ちすくみ、大きな喪失感を覚える。

ただ、翻って、
紛争地では、こうした理不尽な死が日常的に起きているのだろう。
日々、悲惨なニュースに触れない日はないが、
その地の人々が経験している一人一人の痛み、喪失は計り知れない。

各地で残虐行為をするという「イスラム国」やテロリストを思う時、
彼らは何を考え、何を喜びと感じて生きているのかと思う。
それは戦闘状態で選択肢のない、閉塞状態のように思われる。

私達は、これまでの自国や他国の戦争の経験から、
戦時に行われる残虐行為が、
決して一部の特殊な狂信者によるのではなく、
ごく普通の、普段は善良でさえある人によって行われることを、
歴史に学んで知っている。

2日の朝日新聞で、イランの映画監督の次のような言葉が紹介されると共に、
後藤さんのまなざしも、これに重なるのではないか、
とのコメントが載っていた。

「(タリバーンは)遠くから見れば危険なイスラム原理主義だが、
近くで個々を見れば飢えた孤児である」

また、フェイスブック等で、
後藤さんの姿勢に学び、
「恐怖や不安から敵視や不信を生むのではなく、人と人が分かりあうことを大事にしたい」
という声に、多く共感が寄せられていると聞いた。

私は、後藤さん方の死を悼みつつ、
(さらに無残なことに)これが自衛隊派遣の口実にされたり、
テロの脅威が煽られたりすることを恐れていたが、
こうした言葉の紹介や広がりに胸がいっぱいになった。

私は、日頃、憲法9条について、
人が、時として暴走し、
見えやすい「敵」に飛びついて、安易に暴力(武力)に頼んでしまう、
そういう弱さ・浅はかさを持っていることを自覚して、
暴走を止めてくれる安全装置だと考えている。

後藤さんの生き方と、
「何があってもシリアの人に責任を負わせないで」と残したメッセージが、
今回のような悲惨な出来事の後に起こりがちな、
「一致団結してテロと戦う」と排他的でそれに逆らえない一色、
それこそがテロの原因を生むような方向に、
私達の弱い心が暴走しないように鍵をかけてくれているように思う。

私が、祖国に誇りを抱くとすれば、
戦争の惨禍に学んで、
危機的な状況に陥っても、平和的な解決を指向し続ける冷静さや知恵を見た時と思う。

私も、先人が、不断の努力で維持してきた、平和の中で
生きることができた者として、
不断の努力を受け継いでいこうと思う。

相原わかば
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【医療事故情報センターセンターニュースNo322号掲載】術後腹腔内出血をめぐる5年間の裁判から思うこと [医療事故]

医療事故情報センター・センターニュース322号に掲載されました。

「術後腹腔内出血をめぐる5年間の裁判から思うこと」(郷田)

私にとっての医療事故訴訟の原点である、Tさん・Hさんのことを、お話させてください。

 3人の男の子(当時19歳、16歳、11歳)の父親であったTさんは、今から10年以上前の夏の明け方に、息を引き取られました。享年49歳でした。
 Tさんは、某大学病院内で、転移性肝がん治療のための肝右葉・尾状葉切除術を受けたものの、翌朝に心停止となり、再開腹手術を受けるも意識が戻ることはなく、約1年半の入院の末にお亡くなりになりました。
 Tさんの妻Hさんは、学校の先生をしながら3人の子どもを育て、同時に、片道1時間の道のりをたどって、毎日のようにTさんのもとに通っていました。先輩弁護士とともにお見舞いをさせていただいた時のTさんは、気管内挿管を受けたまま痩せ細られていて、お元気な頃の写真の姿とは別人でした。

その後、証拠保全・医療事故調査・交渉と話は進みましたが、病院側は無責の一点張りでした。そうしたさなかに、Tさんは他界されました。
 翌年のはじめ、Hさん達ご遺族と、①手技ミス、②術後管理上の過失などを主張して訴訟を提起しました。

Tさんの術中出血量は6Lを超えていました。また、Tさんの肝臓には側副血行路が発達しており、それにもかかわらずグリッソン鞘が一括狭鉗・連続縫合され、術後出血をおこしやすい状態にありました。実際、Tさんのバイタル・全身状態は、術後経時的に悪化し、最終的には心停止に至ってしまいました。再開腹止血術記録には、約5Lの凝血塊が充満していたことが記載されています。
このような事情から私達は、Tさんの心停止と不可逆的な意識障害は、①不完全な止血、②術後の腹腔内出血、③出血性(循環血流量減少性)ショックによるものであり、より十分な止血、より早い再開腹止血などがなされていれば防げたのではないかと考えていました。

病院側は、術後腹腔内出血はそれほどなかったとして、全面的に争ってきました。①対処療法(輸血・輸液等)時の一時的なバイタルの回復、②各ドレーンからの排液量の少なさ、③再開腹止血術時に腹腔内に認められた凝血塊は心臓マッサージ時の出血による、④心停止は腹腔内出血によるものではなく、「少量の凝血塊が下大静脈を圧迫し、心臓への静脈還流が減少し、心臓が空打ちを繰返した」、心タンポナーデ類似の状態によるものである、等が反論内容の一部ですが、他にも「ありとあらゆる可能性」が掲げられ、争われました。
たとえば腹腔内に留置されたドレーンについて、再開腹止血術記録には大量の凝血塊により「全く機能していなかった」と記載されていますが、訴訟では、完全に機能していたが心臓マッサージ時の出血により閉塞したと争われました。
原告側が、少量の凝血塊で下大静脈が閉塞したりしないと主張すれば、Tさんの腹腔内は癒着が強く、わずかな術後出血が限局して存在することになり、僅かな凝血塊でも下大静脈を圧迫できたと反論されました。
ああ言えばこう言う式の主張反論が続き、争いに終わりが見えない時期が続きました。

提訴から2年をすぎようとした秋に、ようやく尋問(医師4名・原告本人)にこぎつけました。その際にも医師らからは、はぐらかすような発言が続きました。Tさんが代謝性アシドーシスの状態にあったことが問答に出ると、「代謝性とは断定していない、呼吸性のものなども可能性はあると思っていた」等と逃げようとし、医療記録の記載(BEマイナス14)を示されてはじめて、「そういう意味ではそうです、代謝性アシドーシスです」としぶしぶ認めるといったことです。
こうした医師らの態度を目の当たりにすることは、Hさんにとって辛いことであり、Hさんはこれまで以上に、その医師らにTさんの命を委ねてしまった自分を責め、苦しまれることになってしまいました。

手術から5年、提訴から3年後の秋に、事件は鑑定に委ねられました。けれども、杜撰かつ大学病院におもねったような内容の鑑定書が出されました。
争いの末に、翌年、補充鑑定が実施されることになりました。同時に、当事者双方から私的意見書も提出されました。病院側が提出した私的意見書は、他の大学病院の臓器移植関係部門の副部長という医師が作成していましたが、内容は病院側準備書面の焼き直しに近い、あまりにも不自然なものでした。確認をしたところこの医師は、被告医師と、海外の同じ大学の同じ科で何年も共に研究をしていたようでした。

さらに翌年に入り、ようやく裁判所から和解案が出され、最終的には和解に至りました。請求の趣旨どおりとはいきませんが、勝訴的和解といってよい内容のものでした。

この事件は、術後腹腔内出血を疑いつつも再開腹止血術を実施しきれなかったという、ある意味基本的な事案かと思います。そしてその原因は、いわゆる権威ある執刀医らが行った手術に対して、若手医師が術後出血の可能性を指摘しきれなかったとか、手術終了当日の夜中にバイタル悪化しても、深夜帯の手術開始に踏み切れなかったとかいう、ごく人間的な躊躇が原因だったかもしれないとも思います。
けれども、医師らが扱っていたのはTさんの命であり、Hさんや3人の子ども達のかけがえのない家族でした。再開腹止血術の実施にまで踏み切れなかったにしても、どうしてあと少し早く、術後出血という一番に考えられうる可能性について、より詳しい精査をしてくれなかったのかと悔やまれてなりません。

このような医療事故おこった時に、病院や医師が、医療側の適切な主張立証への尽力を超えて、なりふりかまわず、ありとあらゆる責任回避の主張を繰り広げることは、いたずらに患者・遺族らの精神的ショックや医療不信を深めるだけで、大局的にみて医療側のためにもならないことは明らかです。ぜひ、事実関係の確認と、もしも問題点があったのであれば、これを検証して再発防止につなげようという観点から、患者側の訴えにも耳を傾けていただければと願っています。
また、鑑定書・私的鑑定書などの作成によって訴訟に関わられる方達についても、同業者や友人知人が裁判で負けたら気の毒だという安易な考えに流されず、事案の内容や、訴訟まで起こさざるをえなかった患者・家族らの想いに対しも真摯に向き合い、医学的に適切な御意見を記載いただければと思います。

先日、Hさんに再会をしました。2人で年甲斐もなくキャー!っと叫んで抱き合ってしまいました。気がついたら、2人とも泣いていました。医療関係者・法曹関係者の皆で協力しあって、TさんやHさんのような思いをされる方が、一人でも減りますようにと願ってやみません。
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「憲法九条にノーベル平和賞を」という運動に韓国でも賛同の輪 [憲法]

 2014年12月14日の総選挙で、自民党の大勝の結果、安倍晋三首相は、改憲議論の推進を表明し、7月の集団的自衛権行使を認めた閣議決定にそった安保関連法案を2015年の通常国会に提出する考えを表明しました。選挙演説では、極力この問題には触れず、勝ったとたんに、この政策に支持を受けたとして、改憲を進めようとする姿勢に怒りを覚えます。
 日本を「戦争の出来る国」にしていこうとするこの動きに、私たち国民の多くも危機感を感じていると思いますが、海外でも、懸念を呼んでいます。
 今日12月19日の、毎日新聞朝刊には、次のような記事が出ていました。
「憲法九条にノーベル平和賞を」という運動に韓国でも賛同の輪が起き、韓国の政界重鎮ら50名が署名呼びかけへ動き始めたという記事です。日本国憲法9条が「東アジアと世界の平和のとりで」の役割を果たしてきており、安倍首相が目指す憲法改正により平和憲法が無力化されれば、朝鮮半島や東アジアの平和も脅かしていると主張しています。会見した元国会議長は、「9条は、最後の大戦の後に人類が、戦争をしてはならないと決意したことで生まれた。植民地支配や分断の苦しみを受けた私たちは普遍的な平和への願いを持っており、これが9条に平和賞を受賞させようという理由だ」と述べておられます。
 「憲法九条にノーベル平和賞を」というとき、受賞主体を憲法9条にするか、日本国民にするかという技術的な問題はありますが、この運動は、国境を越えた意義のあるものだと言うことを実感しました。
 改憲の危機は迫りつつありますが、私たちは、それに押しつぶされることなく、国民の過半数の反対意見を作り出すために、どんな小さな努力も惜しまず、周りの人たちに声をかけて「9条の会」や「憲法九条にノーベル平和賞を」運動を広げたいと思います。
                                         辻本 育子
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