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追悼

                  
後藤さんまでもが殺害されてしまった。

紛争地で苦しむ人に向き合い、
寄り添い、行動する人だったという。
学校での講演では、
影響を受けて、平和や人権のために活躍することを目指す若者も少なくないという。

何とか戻って、再び、多くの種を蒔いて欲しかった。
地道でひたむきに人の支えとなり、さらに希望を紡ぐであろう存在が、
それでもあっけなく殺されてしまったことの理不尽さに
立ちすくみ、大きな喪失感を覚える。

ただ、翻って、
紛争地では、こうした理不尽な死が日常的に起きているのだろう。
日々、悲惨なニュースに触れない日はないが、
その地の人々が経験している一人一人の痛み、喪失は計り知れない。

各地で残虐行為をするという「イスラム国」やテロリストを思う時、
彼らは何を考え、何を喜びと感じて生きているのかと思う。
それは戦闘状態で選択肢のない、閉塞状態のように思われる。

私達は、これまでの自国や他国の戦争の経験から、
戦時に行われる残虐行為が、
決して一部の特殊な狂信者によるのではなく、
ごく普通の、普段は善良でさえある人によって行われることを、
歴史に学んで知っている。

2日の朝日新聞で、イランの映画監督の次のような言葉が紹介されると共に、
後藤さんのまなざしも、これに重なるのではないか、
とのコメントが載っていた。

「(タリバーンは)遠くから見れば危険なイスラム原理主義だが、
近くで個々を見れば飢えた孤児である」

また、フェイスブック等で、
後藤さんの姿勢に学び、
「恐怖や不安から敵視や不信を生むのではなく、人と人が分かりあうことを大事にしたい」
という声に、多く共感が寄せられていると聞いた。

私は、後藤さん方の死を悼みつつ、
(さらに無残なことに)これが自衛隊派遣の口実にされたり、
テロの脅威が煽られたりすることを恐れていたが、
こうした言葉の紹介や広がりに胸がいっぱいになった。

私は、日頃、憲法9条について、
人が、時として暴走し、
見えやすい「敵」に飛びついて、安易に暴力(武力)に頼んでしまう、
そういう弱さ・浅はかさを持っていることを自覚して、
暴走を止めてくれる安全装置だと考えている。

後藤さんの生き方と、
「何があってもシリアの人に責任を負わせないで」と残したメッセージが、
今回のような悲惨な出来事の後に起こりがちな、
「一致団結してテロと戦う」と排他的でそれに逆らえない一色、
それこそがテロの原因を生むような方向に、
私達の弱い心が暴走しないように鍵をかけてくれているように思う。

私が、祖国に誇りを抱くとすれば、
戦争の惨禍に学んで、
危機的な状況に陥っても、平和的な解決を指向し続ける冷静さや知恵を見た時と思う。

私も、先人が、不断の努力で維持してきた、平和の中で
生きることができた者として、
不断の努力を受け継いでいこうと思う。

相原わかば
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