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集団的自衛権容認の閣議決定 子ども達が将来、殺し殺されるということ [憲法]

 集団的自衛権容認の閣議決定がなされましたね。

 私が生きているのは、既に戦後ではなく、来るべき戦争の前段階である「戦前」に入ったのだという実感・焦燥感が、自分の身体を駆け巡るのを感じました。

 私は、すぐそこに当然のようにあった平和が、手のひらから砂がこぼれおちるようになくなっていく焦燥感と不安感、明るい未来を提示してあげるべき幼児・小中高生への申し訳なさで、頭がいっぱいになりました。

 子どもの頃、戦争体験を語って下さる高齢の方が、周りに沢山いました。
山間からみた、町中が火の海となった日のこと。トラックいっぱいにご遺体をつんで走った日。兄弟が広島沖の船で被爆して亡くなったこと。日本刀で他人の首を切り落としたことを、抱え続けてきた人もいました。農家の納屋に残る穴は、機銃掃射の跡だと聞きました。

 それでも私は、自分が戦争に行くというリアルな危機感を持たないままに、成長することができました。自分の生命・身体を、国家が自由に扱えると考えたことはなかった。

 それは、小学校から何度も何度も教わってきた、日本国憲法が私達を守ってくれていたからだと、憲法が目の前でねじ伏せられつつある今になって、あらためて強く思いました。



 集団的自衛権の行使とは、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、いろいろな理由をつけて、他国の戦争に自衛隊が出て行くことです。
 行って、殺して、殺されて、兵士の心身や人生をボロボロにし、その家族の人生も深く損ない、日本や日本人全体が、子孫につながる恨みを持たれうる立場になるということです。

 政府はそこに、様々な正当性や必要性を作り上げるでしょう。
 過去のほとんど全ての戦争は、それが侵略戦争であれ何であれ、国家を守るという正当性を掲げてなされてきたのです。けれども実際には、集団的自衛権の発動が不可避だったと思われた事態など、これまでの世界史上、皆無といってよいと思います。
 それでも、何とでも、正当性・必要性はこじつけることができるのです。

 イラクで人質になった高藤菜穂子さんは、このように言われていました。


***************
 現代の戦争は「対テロ戦争」。もしそこに同盟国アメリカと行くなら、相手(敵)は正規軍ではなく「武装勢力」になりますよね。たとえば、イラク。(アメリカでは最近、イラクとシリアで勢力を拡大しているグループが第2の9.11をやるかもしれないという懸念の声もあるそうですし)

 「武装勢力」と呼ばれる彼らのほとんどが肉親などを残虐に殺された遺族であり、武器を持つ動機は深い絶望の中で抱え続けた憎悪であることが大きいと言えます。正規軍のように「命令に従っただけです」とは言わないでしょう。残虐な行為に壊されたその心は想像を超える激しさがあります。戦闘でも米軍を追いつめるほどでした。

 私はそんな「武装勢力」に拘束されました。彼らはまず私たちの国籍を確認しました。日本人であることを確認してから拉致したのです。「人道復興支援」として武装した自衛隊を送ったことに怒り狂っていたのです。
「なぜだ!? なぜ日本軍(アラビア語で自衛隊にあたる言葉がない)をイラクに送った?」「なぜアメリカの味方をする?!」

 何度も怒号を浴びました。

 「対テロ戦争」を続けた結果、アメリカはどうなったでしょう?

 イラクはどうなったでしょう?

 こんな「テロの世界」で集団的自衛権行使する意味があるでしょうか?

 若い命を失った分、世界は安全になったでしょうか?

 「テロ」は減ったでしょうか?

 「人道復興支援」で武装していっても標的になるのです。集団的自衛権を行使することになったら一体どんなことが起こりうるのでしょうか?

 「平和の国ニッポン」というブランドイメージが私たちに安全をもたらしてくれていたのに、日本の「米国追随」のイメージは支援の現場でも深刻な問題をもたらしました。その後、何年もイラク支援のNGOは「日本からの支援」ということを表明できませんでした。表明すれば、現地スタッフが私たちの代わりに標的になってしまったからです。

 あれから何年もかけて、必死に必死に働き、やっとやっとイラクの人々からの信頼を回復することができました。なのに、もう一度それを失うのでしょうか?
***********************



 集団的自衛権の容認行使、そのこと自体が、日本に平和や安全ではなく、惨禍をもたらす高いリスクをもたすものだと、私も考えます。

 昭和史研究の第一人者であられる半藤一利さんも、昨日の報道で、少数の国との関係強化は、結果としてこれに含まれない国との敵対関係を生み、関係強化から得られるメリットを超える高いリスクを含むことが説明されていました。

 第二次世界大戦前の、日・独・伊三国同盟は、これに含まれなかったアメリカとの敵対関係を生み、結局あの戦争につながっていったと。


 実際、現在の日・米関係強化は、結局は米・イスラム圏との争いに日本が入っていく(米国が日本の協力を得ることで、お金をかけずに軍事力を増強する)ためのものではないかとの視点から、中近東諸国などが、日本の動向に警戒をしている様子もうかがえます。
アジアの近隣諸国にも、本来不要であったはずの緊張を強いており、それがどのような不測の事態を招くかについては誰にも予想はできません。

 自衛権も、戦争も、映画でもゲームでも、頭で考えるような綺麗事ではありません。
 自分の家族がかり出され、殺し殺され、傷ついて人生を損なっていく過程なのです。

 私は、安倍の暴挙を防げなかったことを、子ども達に対して顔向けできません。
 閣議決定の取り消し、明文改憲の回避。
 日本中の、ものすごい数の人達が昨日、同じ思いを胸にしたと思います。

 全国7500はあると言われる9条の会の活動、自治体の多数の反対・慎重意見の決議、全都道府県の弁護士会の反対決議、著名人の様々な反対意見表明、全国各地で行われてきたデモ行進に集う人々。

 皆の力を集めて、ぜひ私達の誇る平和憲法を、明文上も実質的にも護っていきたいと思います。

(郷田真樹)

※「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会(ネット署名募集中)
http://chn.ge/1bNX7Hb
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歴史的な日 集団的自衛権容認の閣議決定 [憲法]

昨日は我が国の憲政史上歴史的な日でしたね。

首相が、自分は憲法を好きに解釈できる、つまり実質的に憲法の上にいると宣言した日。

戦前の天皇と同じです。

戦後レジュームからの脱却ってそういうことだったのですね。

いつか、この日を振り返って、「ああ、あのときが歴史の転換した日だった」と思わなくて済むように、今私たちは知恵を絞って、力を合わせて、この無謀な政権を放逐していかなくてはならない、と思います。

(辻本育子)
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東京都議会での、塩村議員に対するセクハラ発言について [セクシャル・ハラスメント]

 東京都議会での、塩村あやか都議に対するセクシュアル・ハラスメント発言について、6月23日、自民党会派の鈴木章浩議員が、自分が発言したことを認めたという報道がされています。

 ヤジの内容のあまりのひどさに、報道当時から批判が噴出し、今となっては海外メディアでも批判報道がなされているようです。
女性に対する共感力のなさ、皆から選挙で選ばれた議員という立場や、議員によって構成される議会という場に対するあまりの無理解に、唖然とした方が多いのではないでしょうか。

 私も参加させてもらった、「東京都議会における差別発言を許さない市民一同」による電子署名では、9万人以上の方の賛同があったようです(http://www.change.org/ja、宛先は自民党東京都連など、内容は「私たちは、都議会本会議内で女性差別発言をした自民党都議会議員を特定し厳正に処分するよう、自民党東京都連に対して強く求めます。」 )。

 自民党野田聖子総務会長をはじめとして、閣僚からも批判が相次いだと報道されています。閣僚については、批判するほかない状況であったり、トカゲの尻尾切りであったり、その思惑は様々かもしれませんが、こうした発言を社会全体が許さなくなったということに、大きな意義があると思います。

 この件で、私が特に気になったのは、発言当時、鈴木章浩議員が何度もこうした発言ができ、昨日の自認まで、派閥内の自浄がなされなかったということです。最初の発言があった時に、少なくとも鈴木章浩議員の周りの議員達は、彼の言動を止めなかった。場合によっては追従したり、うなずくなど同意を示す言動をし、あるいは一緒になって笑っていたことさえ想像されます。

 鈴木議員については、「ヤジの翌日の6月19日に『私じゃないですよ。わからないと思いますよ。ヤジなんていちいち聞いてる人いないですから』と、FNNのインタビューに答えていた」とする報道もあります(6月24日、http://www.huffingtonpost.jp/)し、以後も説明が変遷したと聞きます。

 その経過からみると、23日に自認をしたのは、自責の念や反省からではなく、21日の自民党幹事長発言(「速やかに私ですと言って、おわびをすることが必要だ」)などから、やむをえず逃げ切れなくなっただけだと思われても仕方がないでしょう。

 つまり、彼は、自分自身の発言に自信と責任をもって、確信犯的にその発言をしていたわけではなく、匿名者の1発言として逃げきれると判断していたからこそ、こうしたヤジを飛ばしたのだといえます。そして、名乗り出ずに、匿名者として、わざわざそうしたヤジを飛ばす当時の彼の心理は、そうすることで塩村議員をちゃかして、周囲の笑いをとる、周囲と一緒に塩村議員を笑いものにして楽しむというところにあったのではないかと思います。 

 そう考えると、問題はひとり鈴木議員のものだけではありません。

 もちろん彼は、発言者として責任を負うべきだと思いますし、彼のような人に都政に関わって欲しくないと思いますが、加えて、鈴木議員の言動を止めず、そればかりか容認・追従・同意し、あるいは一緒になって笑っていたと思われる鈴木議員の周囲の議員達にも、いち加害当事者であることの自覚をもち、自分達の言動がいかに社会的常識から外れているか、許されないものであるかという反省をしてほしいと思います。 

 セクシュアル・ハラスメントは、ひとり加害者・被害者のいち当事者間の問題ではないことが、多々あります。特にこうした、周囲の面前でセクシャル・ハラスメント発言を投げかける場合などはそうでしょう。

 社会全体で、これからも、こうした女性に対する侮蔑発言は許されないということを意思表示していきたいですね。

(郷田真樹)
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生きるということ〜ミュージカル「CATS」〜 [日常]

 知人から、都合がつかなくなったという理由で“棚ぼた”のようにチケットを譲り受けた。
 ミュージカルそのものを観に行ったのは数年ぶり、CATSは初めてである。

「人間に飼い馴らされることを拒否して、逆境に負けずしたたかに生き抜き、自らの人生を謳歌する強靭な精神と無限の個性、行動力を持つ猫、それがジェリクルキャッツ。そして、今宵は、長老猫が最も純粋なジェリクルキャッツを選ぶ、特別な舞踏会。再生を許され、新しいジェリクルの命を得るのは誰か。•••天上に上り、新しい人生を生きることを許されるただ一匹の猫•••」
(劇団四季ホームページより。)
 
 猫達の住処に迷い込んだのではないかと錯覚するほどの舞台装置。
 観客席に覆い被さってくるような仕掛けは圧巻だった。
 そして、年老いた孤高のメス猫グリザベラが歌い上げる名曲「メモリー」。
 詳しく書くとネタバレになってしまうが、そんなグリザベラに初めて触れ、寄り添うのは、生まれたての小さな子猫、シラバブ。

 雄と雌、若と老、善と悪、明と暗•••対極にあるいくつもの概念が、猫達のしなやかで美しいダンスと歌によって、絶妙に混ざり合っていく。
 悪いことばかりしているはずなのに憎めない。あまのじゃくでみんなと反対のことばかりしているのになぜかモテモテ。昔は若く美しかったのに今は•••。
 人間が当たり前のように持つ感情ばかりだ。
 CATSがロングランたる所以はここにあるのだろう。
 そんな、いろいろな思いや感情が出ては消え、また蘇って悩んでは乗り越え••、そんな風に過ごして年齢を重ねて行きたいと思った。

 ところで、一緒に観に行ったのは5歳児。
 こんな奥行きのある観念的なストーリーを理解できるはずないだろう、観客席にも何度か下りてくるキャッツ(間近で観るとメイクがリアルでかなり迫力があるのだ)や大きな効果音に驚いて泣き出すのではないかと予想していた。
 ところが、公演を食い入るように観きり、終了後には何と「面白かった!また観たい!」と言ったのだ。
 聞くと、「おじさんネコが船で戦っているところが楽しかった」と。
 これは、年老いた役者ネコが、昔の自分の晴れ舞台を披露する劇中劇を指している。
 今、戦隊モノにハマっている君には、きっとそこが一番分かりやすかったんだねと思いつつ、それでも、ほんの少しでもこの名作が心に響いてくれたのだとしたら、それは親として嬉しい限りだ。

 柏熊志薫
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ワークルール検定で働くルールを学ぼう (申込み締切迫る!) [人権]

 ワークルール検定ってご存じですか。

 使用者も労働者も、働くルールを知らないまま、労使紛争が増えている、
 学校教育の中でもきちんと教わる機会がなく社会に送り出される…
という危機感から考案されたそうです。

 例えば、解雇について「産前産後休業中の労働者は、問題があっても解雇できない?」の正否等が問われます。

 労働法制が次々に変えられようとし、働き方も多様化する中、自分を守るため、働きやすい職場を実現するため、働くルールを知っておくことは、とても重要です。

 ワークルール検定は、初級と中級があって、今年の実施は6月14日(土)。申込は、5月28日です(ご紹介が遅くてすみません~)
 詳しくはこちらへ(上記設問の回答も)→
   http://www.kenrik.jp/wr/

 また、私も、働くルールについて、5月31日(土)、アミカスにおいて「働くあなたへ 知っておきたいあなたの権利」と題して、話をする予定です。
 当事務所の弁護士が担当する、女性弁護士と女性税理士のコラボ企画「女性の人生サポート講座」(全7回)の一コマです。
 こちらへも是非ご参加ください。
 詳しくはこちら→
 https://amikas.city.fukuoka.lg.jp/modules/eguide/event.php?eid=553

 相原わかば
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残業代ゼロ法案に反対! [政治・法案]

 政府は、労働時間の規制を緩和して、働いた時間に関係なく一定の賃金を払う、つまり残業代が支払われない働き方を認める内容の法改正を準備しています。

 「残業代ゼロ」の労働を広げる案は、何年も前から、別の形で提案されては、強い反対で葬られてきました。
 今回、政府は、専門性の高い労働者や一定の高収入労働者に限定する方向で調整中のようですが、労働時間規制がなしくずしになって、一層長時間労働が横行するものとして、強い危機感を覚えます。

 労働時間については、労働基準法で1日8時間、週40時間という原則があり、労使協定を届け出た場合だけ時間外労働が認めらます。
 時間外労働の上限は法律上ありません!(行政指導の基準だけ)。
 代わりに一定の割増賃金の支払義務によって、抑制される仕組みとなっています。

 けれども、長時間労働が横行しており、国際的にも突出しています。
 その要因には、サービス残業、つまり正しく残業代が支払われていないため、抑制が効いていないという実情があります。
 確かに、以前から、上司より先に帰りにくいとか、長く残業する人が評価される等の悪しき慣行といった、人の意識の問題もありますが、対価が支払われているなら一定の抑制が働く筈です。
 やはり制度の問題、きちんと機能しないというシステムの問題が大きいのです。
 長時間労働で健康を害する事案の多くは、労働実態に見合った残業代は払われていません。
 労働実態を(敢えて)把握していなかったり、時間外手当の計算を、本来含めるべき手当等を入れず基本給だけで計算して安上がりにしていたり。

 また、現行法上の例外も問題です。時間外規制の例外として「管理監督者」が挙げられていますが、これが単なる「管理職」と誤解・悪用されている実情にあります。
 本来は、労働条件の決定を含めた労務管理について経営者と一体的な立場といえる程の、重要な職務と責任権限があって、それにそぐう実態があり、ふさわしい待遇を受けている一握りの労働者のことを指します。
 しかし、実態は、そんな地位・権限はないのに、「課長」「リーダー」等の肩書だけで、わずかな管理職手当でお茶を濁され、「管理職だから残業代がつかない」という嘘がまかりとおっています。

 8時間労働制は、元々、産業革命以後の劣悪な労働条件に対して獲得された、人間的な生活の最低限の条件でした。
 19世紀末のゼネストでは、「最初の8時間は収入のため、次の8時間は休息のため、最後の8時間は自分自身のため」と要求され、人間らしく、つまり社会や政治に参加していく上でも必要不可欠な権利だったのです。

 長時間労働は、女性の就業を阻む壁として、また少子化の要因の1つとして、その是正が強く求められています(その上、日本は、時間あたり労働生産性が非常に低くて、いいことなし~:OECD調査)。

 今、優先すべきなのは、人間らしく働くルールを守らせる仕組みづくりです。例外を広げて、一層、ルールが守れなくなるような法改正は、弊害が大きく必要ありません。


相原わかば
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「わたしは、マララ」 平和を失うと、女の子が学校へ行くだけで撃たれることもあるという現実 [教育]

「わたしは、マララ」 平和を失うと、女の子が学校へ行くと撃たれることもあるという現実

 『わたしは、マララ』を読んだ。
 
 パキスタン、タリバンという言葉からは、遠い外国の話という印象を持つむきもあるかもしれない。
 けれども、平和で豊かな文化をもつ社会で、人々がいとも簡単に、口当たりのよい言葉を述べる指導的な人物にだまされ、あるいは洗脳され、気がついた時には恐怖によってコントロールされ、ごく短期間の間に平和も仕事も教育も無残に奪われていく過程は、この先の日本にも十分にありえる展開であるとも思えるリアルさをもって私に迫るものだった。
 また、女の子は学校に行くなというその価値観も、日本においてそう古い話ではないし、今も世界中にそうした女の子がたくさんいることに、思いをあらたにした。
そうした意味で本当に、身に迫る話だった。

 マララは、パキスタン北部のスワート渓谷に住む、1997(平成9)年生まれの少女。
 スワート渓谷は、緑豊かで、果樹園にたわわに果実が実る、東のスイスと呼ばれる渓谷で、誇り高く、豊かな文化を持ち、どんな状況であっても客人は厚くもてなすという豊かな文化をもつパシュトゥン人達が暮らしている。

 けれどもいつ頃からか、人々はタリバンの指導者の考えに賛同し、よかれと思って自らの財産を寄付するようになる。力をつけたタリバンは、次第に恐怖で街を支配していく。爆弾テロ、殺人、公開むち打ち。殺された遺体は脅迫的なメッセージをつけて道にさらされ、あるいは切り落とされた首が持ち歩かれることもある。

 本書によれば、かつてのアフガン戦争で、米ソ冷戦に巻き込まれた現地で、米国CIAが、パシュトン人達を含む人々に聖戦(ジハード)への参加を推奨したという。難民キャンプの子ども達に与えられる教育は、アメリカの大学が作成した、「ソ連の異教徒10人のうち5人がわれわれイスラム教徒によって殺されたら残りが5人です」、「(弾丸15初)-(弾丸10発)=(弾丸5発)」といった内容のものだったと。
 そうしたなかで、タリバンが育つ土壌ができ、はじめのうちは人々の支持を得て、のちには恐怖をもって、広い範囲の地域がタリバンに支配されるようになり、自分達の価値観を住民みなに強要することになる。拒む者に待つのは死か、これに匹敵する恐怖。
 なお、タリバンといっても、貧困のため、偏った教育のため、恐怖のためなど、様々な理由で参加をした、もともとは普通の人達も多い。

 マララは、そうした中で育った。
 マララの周りには、文字が読めない、男性の同伴がなければ外出を許されない、そもそも女性は学校へ行くべきではないといった価値観が広く行き渡っている。また、ストリートチルドレン、ゴミを拾って生計をたてる子ども達もいる。
 マララは、30年も海沿いのカラチの街に住んでいながら、一度も海を見たことがなかったという叔母の人生に衝撃を受けたこともある。女性は、男性が連れていなければ海に行くこともできない。こっそり家を抜け出せても、文字が読めないので海の方向を示す標識を読むこともできないからだ。海の向こういは、女性達が自由に暮らす国もあるのに。

 このマララの父は、貧しい中から必死に学校をおこし、男女の区別なく子ども達に教育を与えること、皆が互いに寛容で平和に暮らすことを是とし、自らがテロの対象になるリスクを負ってタリバン批判を続けてきた人物である。

 マララもまた、全ての子ども達は学校で学ぶ権利を持ち、全ての女の子もまた学校へ行く権利を持っているはずだと考え、自らが、タリバンに襲われるリスクを背負って、教科書を隠し隠し学校へ通い、父とともにあちらこちらの集会で教育を受ける権利を求めるスピーチをし、匿名でBBCのブログへタリバン支配下での不自由な生活の状況を綴ってきた。

 けれども、タリバンによる支配は続き、政府軍もこれを解決する姿勢を見せず、1012年10月9日には、マララが、スクールバス内で銃に撃たれることになる。マララの女友達もまた負傷した。
マララは生死の境をさまよい、後に親とも離ればなれになりながら海外搬送され、意識が戻った後も複数の手術を要するほどだった。

 マララはその後、奇跡的に回復し、2013年には国連本部で、スピーチをできるようになった。

 「何百人もの人権活動家やソーシャルワーカーが、人間の権利を言葉で主張するだけではなく、平和、教育、平等という目標を達成しようと、日々闘っています。これまでに何千人もの人々がテロリストに命を奪われ、何百万人もの人々が傷を負いました。わたしはそのうちのひとりにすぎません。」

 「親愛なる兄弟姉妹のみなさん、光の大切さがわかるのは暗闇のなかにいるときです。声の大切さがわかるのは、声をあげるなと言われた時です。それと同じように、パキスタン北部のスワートが銃だらけになったとき、わたしたちは、ペンと本の大切さに気づきました。」

 「過激派は、本とペンを怖れていました。そしていまも恐れています。
 教育の力が怖いのです。彼らはまた、女性を恐れています。女性の声が持つ力が怖いのです。だから、彼らは人を殺すのです。」

「わたしは今日、女性の権利と女の子の教育を中心にお話ししています。もっとも苦しんでいるのは、女性と女の子だからです。(中略)わたしたち達がみずから立ち上がるときがきたのです。」

「言葉には力があります、わたしたちの言葉で世界を変えることができます。みんなが団結して教育を求めれば、世界は変えられます。でもそのためには、強くならなければなりません。知識という武器を持ちましょう。連帯と絆という盾を持ちましょう。」

「忘れてはなりません。何百万人もの人が貧困、不正、無知に苦しんでいます。何百万人もの子どもたちが学校に通えずにいます。」

「世界の無学、貧困、テロに立ち向かいましょう。本とペンを持って闘いましょう。それこそが、わたしたちのもっとも強力な武器なのです。ひとりの子ども、ひとりの教師、一冊の本、そして一本のペンが、世界を変えるのです。
 教育こそ、唯一の解決策です、まず教育を。」


 たくさんの世界の女の子達のこと。
 私達が彼女たちのことに、決して無関心にならず、想い、共感し、力になりたいと願い続けること、できればそうした意思を語り、発信し続けていくことがまず第一歩かもしれない、と思う。

郷田真樹
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「LEAN IN」 Facebook COO(最高執行責任者)の考える男女平等 [男女共同参画]

シェリル・サンドバーグのリーン・インを読んだ。

 「もっと多くの女性が権力のある地位に就くことです」

 リベリアで、女性達の非暴力抵抗運動を組織して内戦終結に尽力し、2011年にノーベル平和賞を受賞した女性、リーマ・ボウイの、「内戦の恐怖や集団レイプに苦しむ女性たちを助けるには、私たちアメリカの女性はどうしたらいいでしょうか」との質問に対する答えである。

 シェリルも同じように考える。
 指導的な役割を果たす女性がもっと増えて、女性が抱える問題やニーズをもっと強く主張できるようになれば、すべての女性が置かれた状況は改善されるにちがいない。
 
 シェリルは、GoogleからFacebookに転職をし、執筆当時はFacebookの最高執行責任者の女性。ハーバードのMBAを取得してマッキンゼーに入り・・・という経歴をもつ、いわゆるスーパーウーマンである。そうすると、「はいはい、私達とは違う、雲の上の女性の成功譚ですね」、という気持ちになって、この本を受け入れない人も多いかもしれない。またそうやって、自分と関係のない世界の人だと切り離す方が、心穏やかかもしれない。

 けれども私は、そうやって、彼女が懸命に努力をして、壁にぶちあたり、もがきながらつかみ取ってきたものを、彼女の持って生まれた能力・体力・環境の豊かさのせいにだけしてはならないと思う。

 私達だって、懸命に努力して、なんとかやりくししているこの毎日を、「あなたは恵まれているから」、「ラッキーだから」の一言で片付けられたら、やっぱり少し嫌な気持ちにならないだろうか。

 私達は、私達なりに、彼女から、意思や意欲を持ち続けること、彼女がぶつかった壁やその乗り越えかたを学ぶことができるように思う。

 気持ちのハードルを取り払って彼女の本を読めば、彼女の悩みには、私達の悩みと変わらないものがたくさんある。
 女性は、社会に築かれた障壁のほかに、自分自身の中にも障壁を持っていること。
 たとえば、大望を掲げようとしないこと。それは、自信がないからでもあるし、一方踏み出すべき時に引いてしまうからでもある。
また私たちは、自分の内にネガティブな声を秘めていて、その声は人生を通して囁きつづける。言いたいことをずばずば言うのははしたない、女だてらにむやみに積極的なのは見苦しい、男より威勢がいいのはいただけない・・・。
 加えて私達は、自分に対する期待を低めに設定する。相変わらず家事や育児の大半を引き受けてもいる。夫やまだ生まれてもいない子どものために時間を確保しようとして、仕事上の目標を妥協する。

 彼女自身が、こうした内なる障壁との戦いを繰返し、自分自身の内なるハードルを乗り越え、この男性社会のなかで、女性が男性と闘うのではなく、互いに協力的に仕事をしていく方法がないかと模索をし続けている。

 また彼女は、自分が指導的地位についた後にも、多数の女性が、自制的な行動をとっている姿を目にし、あるいは、未だに自分もそうしてしまうことを告白する。
 女性は男性と比べて、自分を強く売り出すことが苦手で、むしろ自責的で反省しがちであること。女性は責任ある地位に不安感を持ったり、自分はまだその立場に見合わないように思ったりしがちであること。
 男性が集まる会議で、同じテーブルにつかずに壁際に座ってしまうこと。講演者への質問が「あと数人」と制限される時、女性は遠慮して手を下ろしてしまいがちなこと。
 私にも思い当たり、あるいは私の周りで頻繁に見かけることばかりだ。

 さらに女性には、育児と復職・両立をめぐる様々な問題と現実や、子どものいる女性と子どものいない女性との間での賃金の水準の厳然たる違い、長時間労働をする男性の妻は、高い確率で離職をしてしまう現状などもある。

 彼女は言う。

 行き詰まりを打開するには、声をあげつづけなければならないし、ほかの人にもそうするよう励まさなければならない。言葉は意識を変え、意識は行動を変え、行動は制度を変えるだろう。

 簡単でないことは承知している。職場における男女差別の問題を取り上げるのは、泥沼に足を踏み入れるようなものだ。平等の扱いをめざしながらも、男女の違いは認めざるを得ないのだから、そもそもこの問題自体が矛盾をはらんでいる。

 けれども、議論を避けるのは、前に進む途を閉ざしてしまう。私たちは、声を上げ、耳を傾け、議論し、反論し、教え、学び、そして変わっていかなければならない、と。


 この本では、主にアメリカに関するものであるが、女性のおかれた状況についての統計資料も読みやすく豊富に示されている。また、これまでにあまり取り上げてこられなかった、女性の内なる障壁(前に出にくかったり、自分を低く評価しすぎたり、自信を持てなかったりハードル)について、彼女の経験をとおして、具体的に丁寧に検討がなされている。

 そうした点で、特別にトップを目指す、高い地位を目指すという意欲があるかないかにかかわらず、全ての働いてみようという気持ちのある女性にとって、とても参考になり、かつエールを贈ってくれる本ではないかと感じられた。

郷田真樹
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意外に知らない改正道路交通法!? [交通事故]

先日、自動車免許の更新に行ってきました。
終盤に講習があり、最近の道路交通法改正についての解説がありました。
ほぼ毎日運転をしていますので既に知っているルールもありましたが、初めて知ったルールもありました。
おさらいも兼ねて、いくつかご紹介します。

【悪質・危険な運転をなくすための改正】

1 運転者本人に対して、飲酒運転等に対する罰則が引き上げられました。

 例)酒酔い運転の場合
   (改正前)3年以下の懲役または50万円以下の罰金
  →(改正後)5年以下の懲役または100万円以下の罰金
 例)酒気帯び運転の場合
   (改正前)1年以下の懲役または30万円以下の罰金
  →(改正後)3年以下の懲役または50万円以下の罰金

2 運転者と関わった者に対して、飲酒運転幇助行為(酒気帯びの状態で飲酒運転をするおそれがある人に車を貸す行為、酒に酔った状態であることを知りながら自分を送るように頼んでその車に同乗する行為など)に関する罰則が設けられました。

【高齢者の安全運転のための改正】

1 講習予備検査の導入

 75歳以上の方が免許更新をする場合には、高齢者講習の前に、記憶力や判断力を検査する、いわゆる認知機能検査を受ける必要があります。

2 高齢運転者等専用駐車区間制度の導入

 高齢者や障がい者、妊婦などが多く利用する官公庁・福祉施設などの周辺の道路上には、「専用駐車区間」を設置できるようになりました(「P」の標識の下に「標章者専用」の文字)。この区間では、高齢者等が運転し、かつ、都道府県公安委員会が交付する標章(ステッカーのようなもの)を掲示した普通自動車だけが駐車できます。つまり、その標章がない者が専用駐車区間に駐車すると、駐車違反になり、違反金は通常の駐車違反より高くなります。気を付けましょう。

【聴覚障がい者を保護するための改正】

聴覚に障がいのある方は、これまで運転免許を取得できませんでしたが、ワイドミラーを使用し、普通自動車に限定することを条件として、普通自動車免許を取得できるようになりました。聴覚障がい者マーク(補聴器が蝶のモチーフでデザインされている)を表示した自動車に対しては、幅寄せなどが禁止されています。

以上、一部ですが、みなさんはいくつ知っていましたか?

ところで、福岡県のクルマ事情。統計資料(平成24年)によると…

 交通事故発生件数 全国ワースト4位
  そのうち死者数 全国ワースト9位
     負傷者数 全国ワースト3位

さらに、飲酒運転発生件数になると、
    平成22年 全国ワースト1位
     同23年 全国ワースト2位
     同24年 全国ワースト10位
 (減ってきてはいるものの、まだまだです)。
「安全運転のしおり」福岡県警察本部交通部運転試験課発行より。

講習の最後、担当者の方からのメッセージは「みなさん、福岡で運転をするということ自体、既にリスクを抱えているという自覚を持ってください」というものでした。

ワクワクしながら通った自動車学校、ドキドキしながら受けた試験、初めて免許証を手にしたときの感動。
初心を忘れずに、明日も、安全運転を心掛けようと改めて思ったのでした。

(柏熊志薫)
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弁護士の卵の雑感その2~弁護士に必要な「力」~

はじめまして。

女性協同法律事務所で1月末まで研修をさせていただいた司法修習生(女性、30代)です。

司法修習とは、裁判官、検察官、弁護士になるための1年間の研修で、そのうち、弁護士事務所での研修(弁護修習)は2か月間です。

同じく女性協同法律事務所での弁護修習中に、弁護士に必要な「力」として、共感力・傾聴力・人間力、の3つを挙げた先輩に続き(2012年3月15日の記事をご覧くださいませ)、僭越ながら私も、2か月間の弁護修習を経て実感した弁護士に必要な「力」を3つ挙げたいと思います。
http://josei-kyodo.blog.so-net.ne.jp/archive/20120315

○体力

まず驚いたことは、弁護士の先生方の体力です。

自分のこと、家庭のこと、仕事のこと、社会のこと、多方面で活動しつつ、とても健やかなるご様子。

私も、丈夫な体と体力には自信があったのですが、それは自分の世話だけをしていればよい状況においてのもの。これから健康的に体力をつけるべく、適度な運動と正しい食生活を心がけます。

○忍耐力

弁護士の仕事は、共感力・傾聴力を発揮していろいろな方々と円滑な関係を築くことと、各種書面を作成することが二つの柱です。

書面の作成には、依頼者の方のお話をもとに、事実と証拠をひとつひとつ積み上げて、法的主張を導くという、とても忍耐がいる細かい作業が要求されます。

今まで、どうすれば手間を省けるかを考えることに手間をかけてきた怠け者の私は、この地道な作業を体験し、意識改革ができました。依頼者の方の大切な人生を法的立場で支援させていただいている、ということを忘れずに、地道に、丁寧に、誠実に、仕事をしていきたいと思います。

○総合力

弁護士は、ありとあらゆる優れた「力」を持っていなければできない仕事なのかと問われれば、そうではないと答えます(念のため、私が出会った先生方が優れた「力」を持っていないという趣旨ではありません…)。

弁護士だって人間だもの、個性はそれぞれ、得意不得意もあって、それがよい、と思います。
もっとも、総合的なバランス感覚がないと務まらないことは確かです。自分自身に足りないものを把握して、それを補うためにどう対処すべきかについては、常に考えておきたいと思います。


最後に、私も弁護士を志す身でありながら、自分自身が家庭の問題(特に離婚)を抱えたときには、女性協同法律事務所に相談に行こうと心から思います。本当に頼もしいです。

安心して離婚できると思えば、安心して結婚できるのではないか…。それはとても難しい問題です。

(修習生)
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